16回 民生委員・児童委員の始まりも大阪

今からちょうど100年前、1918年(大正7年)10月のことです。

当時の大阪府知事、林市蔵は、淀屋橋の理容室で散髪をしてもらっていました。きっと、世間話かなにかをしながら、整髪をしてもらっていたのでしょうか?

自分が映っている鏡に、外の風景も映っていました。

林は、ぎくりとしました。

10月なのに、破れるに任せ、形も定かではないような浴衣だけを着て、赤ん坊を背負い、新聞を売っている女性の姿が鏡に映っていたのです。

外にでて話を聞き、さらに、近くの交番の警官にその女性の身の上を丁寧に調べるように、お願いしました。

夫が病気で子どもが四人。夕刊を売って身過ぎ世過ぎとしている。夫は、沖仲仕(港湾労働)をしていたが、無理がたたって、体がうごかなくなり、寝たきりであるとのこと。治療するにも、病院代がない。

また、当時は諸物価高騰で、お米の値段が数年で二倍とかに上がったころです。米騒動の年でもありました。

大阪では、窮民対策として、米の廉売所を作っていたのですが、そこに年老いた女性が、肩を落としている姿を見ます。

安く米が買えるのですが、買いに来たひと、1人当たり三升まで。中には、家族全員で来てたくさんのお米を買うひともいる。

しかし、その年老いた女性は、働き手の息子を亡くし、その妻と子どもたちは家にいる。1人だけ、子どもを連れてきたが、その子がまだ幼く、せっかく持ってきたなけなしのお金を落としたというのです。

十分なお米も買えない家計だし、家族の事情で大勢で買いに来ることもできない。

林は、考えます。夕刊売りの婦人の住んでいる近くには、無料低額診療をしてくれる病院(済生会大阪病院)もある、しかし、婦人はまったく知らなかった。

また、せっかく、お米の安売りを行政がやっても、家庭の事情で、十分にそれにアクセスできないひともいる。

つまり、制度を整えても、それが当事者に届かないことが充分に考えられる。届けるために「つなぐ」(コーディネート)することが、今、欠けている。むしろ、ほんとうに困っているひとに届けるためには、そちらのほうが大切だ。

もう1人の人物が登場します。

小河滋次郎(おがわ・しげじろう)。現在の早稲田大学にあたる、東京専門学校を出て、ドイツ留学し、博士号を取得。行刑学が専門でした。

行刑学というと、ミシェル・フーコーを思いだしますね。監獄と処罰です。

彼は、もろ、司法省監獄局に勤めます。パリ、ブリュッセル、ブダペストで開かれた国際監獄会議(当時の言葉では「万国監獄会議」)などという、いかめしい名前の会議にも、日本代表として出席しています。

しかし、当時の(今でもかも)の、「罰を与えて懲らしめる」という、考え方にとても違和感を持ちます。犯罪を無くすためには、犯罪者を処刑したり、監獄に入れたりするのでは、根本的解決にはならない。

彼は、ひととしての犯罪者の背景に、「社会」を見ました。犯罪を生み出す社会を変えること、そのためには、教育と福祉であると考えたのです。

特に、彼は未成年は、保護されるべきであると強く訴えたので、それも、厳罰主義の当時の政府のなかで「異端」とされました。

小河が大阪に来たのは、林知事の前でしたが、林知事に請われて、警察部救済課に所属し、救済活動に専念していったのです。

実は、大阪に先駆けて、岡山県では「済世顧問制度」という救済の仕組みを作っているのですが、この制度には、「道徳」と「指導」という、若干の上から目線と、それから、任命されたのが、「エラい人たち」つまり、地域の名士たちという問題が指摘されています。

対して、小河が提唱したのが、「方面委員」――これが、今、全国で十数万人いらっしゃる民生委員、さらに児童委員の始まりになるのです。

委員は、地域のお歴々ではなく、地域で世話好き、顔の広い「普通の人たち」そして、行うことは、「指導」ではなく、ケースワーク。当事者の状況をよく知り、そして、制度やひとにつなげることでした。

彼は、米騒動以来の社会の雰囲気に対して、政府などが推し進めようとしている「社会主義の蔓延を防ぐための防貧」、「治安対策としての防貧」「文明国家の対面維持のための防貧」という考えに、真っ向から異を唱えます(『社会問題救恤十訓』)。

そして、「公私協働による事業の円滑な運用を望む」(同)ともしています。

そして、救済においては、「個人々々の実情を吟味して之れに相当する処の適切なる個別的保護を加ふることにせねばならない」(同)とも述べています。

1918年(大正7年)10月中に、方面委員は設置されます。

その時、選考に当たっては、米騒動の時に、救援に活動した民間人たち、また、地域に根ざし、人々の生活の、まさに「米びつの中身」まで知っている、日用品小売商、米穀店、質屋、そして大家さんが選ばれました。

(これは大ヒット!)

だいたい、小学校区に10人から20人という配置。大阪市を含む府下35方面に、方面事務所が設けられました。

今も続く、民生委員の制度ですが、そのルーツには、今でも先駆的と思われるような、「1人1人を見る」というパーソナル・ケア、「エラい人ではなく、世話好きなひと」、「地域をよく知る人」を選ぶという、地域重視の性格が、色濃く出ていたということは、特筆すべきものであるといえるでしょう。