第3回 シャープ特選工業

シャープ、もう一つの歴史

ーー障がい者雇用のさきがけ

 

シャープといえば、液晶などの分野での華々しい技術革新と、そして経営不振、海外企業による買収などのニュースを、ここ数年、私たちは目にしてきました。JR阪和線から長池越しにみえる、かつての本社のたたずまい。大阪の人たちにとって、とても親しみのある企業です。

シャープには、忘れてはいけない、もう一つの歴史があります。

それは、視覚障がい者を長年にわたって支え続けてきた歴史です。

 

東日本大震災の翌年から、大阪市東住吉区のある商店街の夏祭でブースを出させていただき、被災地で作られたさまざまなグッズを、仲間と販売しています。一年目、セッティングまで少し時間があったので、近隣をしばらく散歩していました。数分歩くと目にしたのが「大阪市立早川福祉会館」の看板でした。そのまままっすぐ数分進めば、前述のシャープの本社ピル(以前の)です。

早川福祉会館は、1962年、シャープの創業者、早川徳次(敬称略)の寄付金で出来た障がいのある方々、特に視覚障がいのある方々のための施設です。充実した設備とサービスの点字図書館で有名です。さらに歩いて、シャープの本社(前の)のところを南に曲がり数分行った所に、かねてより「一度、見たかった」場所がありました。

「シャープ特選工業株式会社」

ここで働くのは91人、うち障がい者は52人(2016年6月1日現在)です。8割が重度障がい者です。

 

シャープの創業者、早川徳次は、1893年(明治26年)東京の生まれ。生まれてすぐに、養子に出されたのですが、養母が死去し新しいお母さんから、ひどい虐待を受けます。食べ物も満足に与えられず、尋常小学校も二年生でやめさせられ、早朝から深夜までマッチ箱づくりの仕事をさせられます。

この辛い毎日から、文字通り「手を引いて」逃がしてくれた人がいました。後に、早川自身がこう語っています。

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温かい手のぬくもり(つながり)

なんといっても私の人生に最も大きな影響を与え感謝しなければならない出会いは、私の幼い時に近所に住んでいた井上という盲目のおばあさんと、9歳の時から10年間奉公した錺屋(かざりや)の主人坂田さんの二人である。盲目の井上さんは、継母にいじめられ、ひどい栄養不良になっている私を、住み込みのデッチ奉公に連れて行ってくれた人だ。見えぬ目のおばあさんに手をひかれて、養家のある深川から本所の坂田という店まで連れて行ってもらった。この時の井上さんに引かれた温かった手のひらのくもりは、今なおこの私の手の中に残っている。

(早川特選工業HP 「創業者の想い」から)

 

徳次少年は、一人前の錺(精密な金属加工)となります。

そして作ったのが、何だと思われますか?「早川式繰出鉛筆」、後に「シャープペンシル」と改名します。いつも、芯が尖っているからです。シャープペンシルは、早川徳次の発明なんです。そして、後にこのシャープペンシルから、総合家電メーカーの「シャープ」の名前は来たのです。

 

一時は、従業員も200人を越え、順調にいっていた事業でしたが、1923年9月1日の関東大震災で、家族と工場を失いました。この時に支援してくれたのが、大阪浪速区の中山太陽堂(現・クラブコスメチック)とその子会社・日本文具製造です。先日「星野リゾートが落札した」と話題になった、JR環状線新今宮駅北側の空き地に当時建っていたのがこの会社です。

1923年(大正12年)12月、早川徳次は大阪へ。「早川金属工業研究所」を設立することになります。戦後は、国産第一号のテレビや電子レンジ、また電卓など、つぎつぎと新しいものを世の中に送りだしてきたわけです。

 

しかし、徳次のこころのなかに、いつもあったのは、幼き日、手を引いて逃がしてくれた目の不自由な井上さん。もう井上さんは亡くなっていましたが、その恩を「目の不自由な人たちにお返ししたい」という志を、彼は持ち続けていたのです。

まず、戦争で失明した傷痍軍人のための工場を作り、1950年に法人化。 1963年「合資会社 早川特選金属工場」となります。そして、1982年からは「シャープ特選工業株式会社」として、多くの障がい者が、誇りと喜びを持って働いています。

1981年「身障者モデル工場」として、 内閣総理大臣賞受賞 。2008年には 「ランプのともしび大賞受賞」 など、シャープ特選工業株式会社は、日本の「障がい者雇用のさきがけ」として、高い評価を受けています。

また、1996「DBS(衛星放送)チューナー」で、ISO9002 取得 。1997年 「IR送受信機」で、ISO9002取得。 2005年には、「化合物半導体のチップ化」で、ISO9001を取得するなど、「日本のエジソン」とも言われた早川徳次のDNAも受け継いでいます。それは、働く人たちの努力と創意のたまものであり、誇りでもあるわけです。

是非とも、生き残って欲しい、いや残して行かねばならない企業です。