第3回番外編

文化先進の地、大阪をつくったーークラブ化粧品とプラトン社

 

直接、大阪の福祉の歴史とは関係ないかもしれませんが、前回、シャープの早川徳次の話だったので、その関連で、ちょっと寄り道をさせて下さい。

本年3月8日、大阪市の発表に多くの人が驚きました。ずっと空き地のままだった浪速区恵美須西3丁目の約14,000平方メートルの市有地が売れたというのです。価格は18億円ほどです。購入者はミナミホテルマネジメント社というところですが、ここに建つ予定のホテルの事業者は、あの星野リゾートです。日本各地で、高級ホテルを営業する星野リゾートです。600室の大きさのホテルが建つそうです。

市は、「国内外からファミリーや友人・知人とともに観光客が訪れるにぎわいあふれるまちづくりの実現と美しい都市景観の創出をめざします」としています(大阪市経済戦略局観光部観光課)。

 

環状線新今宮駅をご利用されたかたは、ご存知と思います。環状線の内回りホームに立ち、釜ヶ崎(いわゆるあいりん地区)を背にすると、北側に大きな空き地があります。あそこです。

また、かつて釜ヶ崎の労働者の多くは、雇用形態が日雇いでした。減ったとはいえ、今でも、かなりの日雇い労働者の方々が住んでおられます。日雇いという雇用形態は、急に遠くの現場へ何ヶ月かいかんとあかんとかがあります。例えば、4月5日から行かねばならない、そしたら、月決めの家賃のアパートでは、4月分の残りがムダになります。そのために家賃が月決めであったり、敷金とかの面倒がなかったりする、「ドヤ」という簡易宿所が多くできたのです。

新今宮駅北側のここには、「ドヤ」ではありませんが、月決めではなく日割り家賃、敷金なしの「ドヤ」と同じ形態のアパート群がたくさんあります。

 

さて、あの空き地ですが、機動隊の基地が出来たり、今まで紆余曲折がありましたが、もともとは何だったのか?

クラブ化粧品の工場だったんですね(今は、株式会社クラブコスメチックスという名前で、大阪市西区に本社があります)。

1918年に、クラブ化粧品(当時は、中山太陽堂)が、ここに本社・工場を作ったのです。中山太陽堂は、道頓堀で化粧品の販売をしていたのですが、自社開発した「クラブ白粉(おしろい)」が好評で、それで大きな本社と工場をここに作ったというわけです。それまで白粉は、鉛が入っており、その被害が多くでていました。この「クラブ白粉」は、鉛を入れておらず、使うことで、美しさと健康を手に入れることが出来ると、とても評判になりました。

 

当時の社長・中山太一は、文化・社会事業にも熱心で、当時釜ヶ崎にあった、生活のために働かざるを得ない少年少女のための学校(徳風勤労学校(創立は、あのクボタの創業者、久保田権四郎です)に、診療所を寄付したりしています。

と同時に、子どもたちに質のいい文房具をということで、日本文具製造株式会社を設立、改名してプラトン文具となりました。場所は、本社工場のすぐ近くです。

関東大震災ですべてを失った早川徳次(シャープ創業者)を支えたのは、彼です。そして、シャープは、大阪に出来たのです。

さらに、中山太一は、プラトン社という出版社も作ります。そして、『女性』などの雑誌を作るのですが、この編集や執筆には、幸田露伴、谷崎順一郎、永井荷風、川口松太郎、室生犀星、岸田劉生、小山内薫、久保田万太郎、泉鏡花、与謝野晶子、山本有三、岸田劉生。そして、なによりも、その表紙や挿絵やタイポグラフィーには、日本のグラフィックデザインの先駆・山名文夫、天才装丁家・山六朗、挿絵の第一人者・岩田専太郎が、ここで腕を磨き、名を成して行くわけです。

そして、早川徳次と同じく、もともとは東京にいたんですが、関東大震災で家や職を失ってここにころがりこんだのは、あの「直木賞」の名前の由来というか、大衆小説の第一人者である直木三十五だったわけです。

大正デモクラシーの時代から、昭和初期。まさに、日本の文学や出版の先駆の役割を担った会社の拠点が、ここにありました。そして、関東大震災で被災し、家族も会社も失ったシャープ創業者の早川徳次さんを支えたことは、空き地がきれいなホテルになったとしても、是非とも、記憶に留めたいと思います。