第7回 全国に先駆けて小学校を作った村—渡辺村

 

学制(がくせい、太政官第214号)が発布されたのは、明治5年8月2日(1872年9月4日、太陰暦と太陽暦の違いで月日の相違があります)。これにより「国民皆学」、小学校、中学校、大学校(当時の呼び名)の設置など、「日本の近代的学校制度」が始まった、と日本史とかで学びました。

でも、それより前に、大阪で小学校が創立されていたのはご存知でしょうか?しかも、国や大阪府主導の「上から」ではなく、地域住民が作ったのです。

「学制」発布より一ヶ月前、同年7月2日のことです。

JR芦原橋の南側。最近まで、病院やホールなどさまざまな公共施設が立っていたのですが、残念ながら、この数年の流れのなかでつぎつぎと閉鎖に追い込まれました。今、その「廃虚」が多数見受けられる地域。ここが「学制以前に学校を作った」旧・渡辺村です。渡辺村こそ、全国に先駆けて教育の近代化に取り組んだ場所なのです。

ここには、牛馬の皮革を扱う職人さんたちがたくさん住んでいました。武士の武具や馬具は皮革製品が多いですよね。それは武士の権威の象徴であったわけですが、しかし、残念ながら、それを造る人たちは、賤しい身分と差別されていました。

太鼓も同じですね。ここは、今も全国有数の太鼓製作地です。

この地域で生まれ育った、とても信頼する先輩がいます。その先輩がこう語っていました。

「この地域から、太鼓は寺社などにたくさん奉納されています。その太鼓は国宝とか重要文化財とか。そして、たたく人たちは無形文化財。でも、作った人は差別される。これって、おかしないかなぁ?普通に考えて」

その通りですね。

さまざまな偏見、差別にもかかわらず、渡辺村は、すでに江戸時代からとても教育にちからを入れていました。それだけ、自分たちの村の未来を思う心があったのでしょう。嘯虎堂(しょうこどう)という寺子屋が作られ、300人ちかい子どもたちが通っていました。「嘯虎」というのは、吼えて四方を揺るがす虎のこと。人が堂々と社会で生きて行くことです。村民の、子どもたちへの思いがよく分かる名前ですね。

学制発布の一年前、「全国に学校が出来るらしいぞ、ならば、私たちの村に学校を」という思いが高まり、村人たちは、大阪府に嘆願書を出します。

当時は、労働力としての子どもを学校に通わせることについて、全国的に大反対運動があったころです。(ある意味、貧しい農村の実状から考えると、それはそれで無理ないことだったかもしれません)

渡辺村は違いました。反対ではなく、「嘆願」があったのです。嘯虎堂などのように、地域で子どもたちの教育をという考え方が定着し、その長い実績、経験があったのです。

しかも、村人たちが皮革業を営んで得た収入の八十分の一の積立金(吉村智博『近代大阪の部落と寄せ場 都市の周縁社会史』参照。日本の産業革命前、明治初頭においては、皮革業は一大産業でした)を寄付するということで、財政的基盤も整っていました。

盤石な実績と財政基盤。すぐに認可がなされました。「栄小学校」の誕生です。

「学制以前に作られた小学校」——栄小学校は、場所は少し北に移動しましたが、今でも存在しています。

さて、「地域住民が私費を投じて小学校を作りました」――それはそれで「美しい話」です。すごいことだと思います。しかし、全国的に反対運動、一揆や小学校の焼き打ちまで起こったという背景、現実のきびしさを忘れてはいけないと思います。

貧しくて、家の手伝いをせねばならない、手伝いどころか、主な稼ぎ手として、働かねばならない子どもたちもいるのです。

当時、大阪には、長町スラムという巨大スラムがありました。ここにも、また渡辺村にも、学校に行かず働かねばならない子どもたちがたくさんいたわけです。

この子たちのことも視野に入っているかどうかが、大切なことだと思います。よく発展途上国に学校を作ろうとかいうプロジェクトがテレビとかで放映されていましたが、学校を作っただけで、その地域の実状を顧みない支援というのは、きびしいいい方かもしれませんが、自己満足と言えるかもしれません。

さて、ここ、心ある「まなざし」を持った二人の人物が登場します。

久保田権四郎と新田長次郎です。二人が作ったのは、勤労児童も通える「夜間学校」です。

久保田権四郎は、クボタの創業者です。また、連載の別の機会に述べますが、彼は夜間の「徳風小学校」を長町近くに作りました。そして、長町スラムがスラムクリアランスにあい、住民の多くが今の「釜ヶ崎」周辺に移動した後、徳風小学校も釜ヶ崎に移動しています。

そして、もう一人が新田長次郎。新田帯革の創業者です。一般消費者向けの製品はあまり製造していないので、知名度はクボタほどではないですが、今は、ニッタ株式会社として、コンベアや精密機器用ベルト(券売機やATMでお札を数える装置など)、産業用ロボットの配管チューブなどを製造するハイテク・グローバル企業となっています。

新田帯革は、1885年(明治18年)3月18日創業。渡辺村の皮革産業の伝統が産んだ大きな会社です。当時、蒸気エンジンなどの動力を伝えるために使われていたのは革製のベルトで、帯革製造は一大産業でした。

新田帯革の取引相手は、日本における産業革命の旗手であった紡績最大手の大阪紡績会社など。また、明治26年には、シカゴ万博に出展、イギリスで開かれた日英博覧会では、名誉大賞を獲得するなど、高品位の動力用革ベルトを製造していました。千数百人の職工さんが働いていたと言います。

また、講習会などの交流の機会を持つなど、職工さんたちの、今の言葉でいう「生涯教育」にも心を砕いていました。

働いて学校に通えない子どもたちのために、1911年(明治44年)6月15日、新田長次郎が私財を投じて作った夜間小学校が出来ました。有隣小学校と名づけられたこの学校は、給食、教材費、授業料も無料です。今で言う「林間学校」などの先進的プログラムもありました。新田長次郎や関係者の「本気度」が分かりますね。

「貧乏な子どもだから、まあ、この程度でがまんしろ」ではなく、「困っている子どもたちだからこそ、より質の高い支援を」と考えた視点は、今でも決してその価値を失ってはいません。