第8回 碑に刻まれた世界のクボタの「原点」

——久保田権四郎と徳風小学校

 

「日雇い労働者のまち」と言われる(今は、仕事がなくて、日雇い労働者のまちから、大きく変貌していますが)、釜ヶ崎の真ん中に保育園があります。

 

「日本の福祉の父」石井十次の大阪事業にルーツを持つ、「わかくさ保育園」です。10年ほど前、虐待防止の切り札として、厚労省が全国の自治体に作るように要請した「要対協(要保護児童対策地域協議会)」のルーツがこの保育園なんです。石井十次の大阪事業と、この保育園については、それぞれ別の機会にご紹介したいと思います。

 

さて、この保育園の園庭に「碑」があります。貧しい(経済的にも、また社会環境的にも)子どもたちへの教育の歴史を語る、貴重な碑です。

「大正十一年七月五日」の日付、「有終之美」とも刻まれています。

 

「私立徳風学校記念碑文」です。 「有終の美」といっても、「徳風学校」が「大正十一年」(1922年)に「終わった」という記念の碑ではなく、「私立」から「大阪市立」に移行したことを記念した碑です。なんか、民営化と逆みたいな感じですね。学校自体は、第二次大戦末、空襲で燃えてしまうまで続きます。

 

この碑文には、何人かのいわゆる「名士」の名が記されています。当時の大阪市長などに交じって、「久保田権四郎」の名前があります。

 

久保田権四郎は、あのクボタの創業者です。1870年(明治3年)広島県因島の貧しい農家の末っ子として生まれました。貧しくて、村のお祭りなど「ハレ」の日に来て行く着物がなく、家に閉じこもっている生活でした。学校にはあまり行けず、15歳で大阪の鋳物屋さんに丁稚奉公に行きます。それが、当時の次男、三男の、ある意味、共通の人生でした。

19歳で独立、今の日本橋辺り、御蔵前町で小さな鋳物屋さんを開きます。1900年、鋳物で水道管を作る技術(丸吹立込鋳造法)を発明・開発します。近代化のなかで、国の水道網が発展していたころなので、まさに、時を得た事業でした(ちなみに、権四郎が生涯に取得した特許は70件にのぼります)。

 

また、大正末には、「自動車製造」に乗り出し、「実用自動車製造株式会社」を作ります。同業の、株式会社快進社と合併して、ダット自動車製造会社となり、久保田権四郎が社長となります。これが、「ダットサン」→「日産」となるのです。ちなみに「ダット」は、「脱兎の如く速い」からとも言われていますが、快進社のほうの創業にかかわった三人の頭文字から採られました。

 

さて、だいたい、今から100年ほどまえ、権四郎が鋳物屋さんを開いていたあたりは、長町もしくは名護町と呼ばれた大きなスラムでした。学制、教育令が布告され、日本でも小学校ができました。このスラム付近にも学校はあったものの、落語「代書」に記されているように、貧困の故に、学校に行けない子どもたちもたくさんいたわけです。学費が払えないこともありますが、子どもたちも、貴重な労働力だったわけです。

 

農商務省が1902年(明治35年)に発表した資料(『職工事情』)にはこうあります。

「之ヲ要スルニ、燐寸職工ハ女工及ビ幼年工其ノ大多数ヲ占メ成年男工ニ至リテハ僅カニ一割内外ニ過ギザルナリ」

 

産業革命、富国強兵の流れのなかで発展を遂げて行く近代日本の産業の底辺には、安い賃金で働かざるをえなかった女性たちや子どもたちがいたのです。単に学校を作っただけでは、「教育の近代化」ひいては「社会の近代化」など、あろうはずはありません。

 

1910年、難波警察署長に赴任した天野時三郎は、昼間、視察中に子どもたちから石を投げられました。この子たちを通わせる学校を作らねばならない、と考えます。これに応えたのが久保田権四郎です。彼は工場の敷地と建物を提供します。

 

翌11年7月5日、とうとう小学校が開校し、「徳風小学校」と名づけられました。働く子どもたちの学校です。わかくさ保育園にある碑文には「同情ひろく集まり、金品を寄贈する者あげて数うべからず」とあります。

お金や文具、衣服の寄付だけでなく、散髪や入浴、医療の申し出が引きも切らずあったと伝えられています。

 

満足にご飯も食べてない、そして重労働に耐えている子どもたちです。校内には食堂があり、無料で朝夕2回食事を提供しています。鳥井信次郎(のちのサントリー社長)が食料の寄付を続けました。信次郎は、子ども健康管理のために「徳風施療院」も建て、医療も無償で提供しました。

 

「がめつい」とか、「えげつない」とか、ステレオタイプ的に評価される大阪人ですが、しかし、「徳風小学校」に集まった善意を見ると、「がめつい」は大阪人の本質ではないように思えます。

 

明治・大正時代に活躍した法学者・小河滋次郎は大阪人について「救済趣味」と評しています。「趣味」というのは、今の感覚では、なにか余裕がある人々の、上からの援助、みたいな感じですが、この言葉を小河が使った当時のニュアンスでは、「情のおもむく方向」、「自然と〜してしまう」みたいな感じ。つまり、「大阪人は自然の情として、人助けをしてしまう」みたいな感じでしょう。

 

徳風小学校は、大阪市域の拡大とともに、南へ南へ追いやられ、今の「わかくさ保育園」の場所に移築され、空襲を被り廃校となりました。

 

貧しくして学校に通えず、幼いころから労働をした久保田権四郎の目には、きっと幼い頃の自分と、大阪の子どもたちとが重なって見えたのでしょう。自然と人助けをしてしまう大阪人気質と、久保田権四郎の思いを、想像してみることも、大事なことのような気がしますね。