12回 夜間中学の希望のあかり(上)

 ――また ひとつ 字が書けて こころがうれしい*

(*金益見『やる気とか 元気がでる えんぴつポスター』より)

CPAOがあるのは、大阪の生野区。在日コリアンのかたが多い地域です。

戦争や生活上の困難のために、学校で学ぶ機会を逸したかたがたも多いです。また、外国から新しく日本に来られたかたもいます。その方々に、日本語の読み書きや算数、社会などを学ぶ場を提供するのが、夜間中学・夜間学級、また識字教室です。

全国8都府県に、公立の夜間中学は31校あるのですが、そのうち11校が大阪にあります。また、大阪には公立ではない、自主夜間学級、識字教室も40以上あります。

CPAOのご近所には、東生野中学の夜間学級(公立)があります。

(公立ではありませんが、同じくCPAOのご近所。北巽小学校では、週一度、水曜日19時から、ボランティアによる「北巽識字・日本語交流教室」が開かれています)

大阪の夜間中学の歴史を語るとき、高野雅夫さんは忘れてはならない存在です。

「旧満州」で生まれ、戦争で父親を亡くし、日本へ引き揚げの途中母とはぐれ、孤児になってしまったのです。九州で「コジキの親方」に拾われ、九州から東京と放浪します。盗みもしました。

そんな彼を、上野の「バタヤ」(廃品回収業)の在日コリアンのお爺さんが、引き取って養ってくれたのです。17歳の時でした。そのお爺さんからはじめて「文字」を学びました。 「タカノマサオ」という自分の名前の文字も教わりました。

そのバタヤのお爺さんが持っていた本の中に、荒川区立第九中学校夜間学級の塚原雄太先生の本(『夜間中学生』知性社)がありました。

「この先生のところに行きたい!」

高野さんはそう決めました。そして、1963年、22歳で、九中に入学するのです。

夜間中学では、文字だけではなく、「憲法」や「人権」も学びました。まさに、そこは、生きることの尊厳を回復する「学びの場」でした。

戦後長く、戦災や貧困で、 何万、何十万という多くの人たちが、字の読み書きを始めとする教育を受ける機会を奪われたままでした。 大阪市立生野第二中学校に、 先生たちがボランティアで、 文字の読み書きを教える夜間学級を開きました。 心ある教員が自主的に作った夜間学級は、全国に広がり、90校近くになりました。

ところが、196611月、当時の行政管理庁(現・総務省)は「夜間中学早期廃止勧告」を出します。昼間の中学校に行け、というのです。

せっかく、先生たちの真心で出来た夜間学級が、どんどん廃校になっていきました。

このとき、廃止反対運動に立ち上がったのが高野さんです。

高野さんは叫びました。

「文字は我々にとって生きるための空気である」

「全国に埋もれている義務教育未修了者の皆さん。ぜひ、自ら名乗り出てください」

「あなた達一人ひとりこそが僕らの闘いにとって唯一の生き証人なのだ」

彼は、釜ヶ崎に来て、そこに住みながら、釜ヶ崎の仲間たちと、夜間中学廃止反対運動、さらには、夜間中学創設運動を繰り広げたのです。大阪府教委、大阪大阪市教委、教職員組合などを毎日回りました。議会でも採り上げられ、世論も盛り上がってきました。釜ヶ崎の仲間と数十万枚のビラを配ったとうかがっています。

ちょうど、日本各地の炭鉱町や、いわゆる「被差別部落」で、識字の権利を求める運動が起こっていました。高野さんの行動は、この運動と共振を始めたのです。

そして、大阪市立天王寺中学校に夜間学級が出来たのです(196965日)。今までは、夜間中学があったものの、行政からは無視されていましたが、ここで、始めて行政が正式に認可したのです。学びの場を待ちに待っていた生徒が、89人きました。

  

さてさて、夜間中学って、どんなところか。山田洋次監督の「学校」でも描かれていますが、今まで、何度か見学に行って、その都度、心が震える感動をいただいています。ほんとの「教育」って、こういうことなんだなぁと。

 80歳を越えた男性が、ノートびっしりと漢字の練習をしていました。まだ、10代の中国からきた女の子が、70代のハルモニと肩を並べて、日本語の敬語を学んでいました。働いている飲食店で、お客さんに、丁寧に応対したいのですが、「敬語はとてもむずかしい」と。

授業がとても面白かったんです。

ある夜、僕が参加したのは、20人ほどの生徒さんのいる国語の授業でした。教材は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」です。

音読や新しい漢字の読み方・書き方は、通常の授業ですが、そこからが面白かった。先生(高野雅夫さんとともに、大阪の夜間中学をもり立ててこられた白井善吾さんです!)が「作者は、あくたがわ・りゅうのすけ、漢字の読み方難しいやろ」というと……

 80代の女性が「この人の子ども、作曲家やで」。同年配の男性が「カンヌ映画祭で賞獲った映画や」。別の女性が「そうや、そうや、京マチ子と長谷川一夫や」

――その通りです。芥川龍之介の息子さんは、芥川也寸志さんで、映画は『地獄門』、第7回カンヌ国際映画祭で、最高賞の「パルム・ドール」とっています。

あとで、白井さんが言ってました。

「にぎやかでしょう。でも、気がつきましたか、会話はあるけど、私語はない」

そうなんです!

今まで、文字の読み書きが出来なくても、人生の様々な経験がある。それが持ち寄られて、一つの授業がみんなの手によって完成して行く。時として、先生と生徒の立場が逆転する。そんな瞬間に立ち会ったのです。言い知れぬ感動に満たされました。

ここ数年、廃止や統合などの、様々な逆風もありました。しかし、公立夜間中学は大阪府内11ヶ所、全国、他の追従を許しません。なかには、最近まで、昼間の中学生より、夜間中学に通う生徒さんのほうが多かったところもあるんですよ。

今、多様な就学の機会を保証するなど、夜間中学の役割が再評価され、公立夜間中学を各都道府県に少なくとも1校開設するという方針を、文部科学省も示しています。

夜間中学の灯が、多くの人たちにとって、また日本社会にとっての、希望の灯として、永続することを強く願ってやみません。