つながるおおさか いま・むかし

 ――福祉・社会事業の先進地・大阪の歴史を知ろう

13回 夜間中学の希望のあかり(下)

 ――「代書」から「えんぴつポスター」まで

上方落語屈指の爆笑ネタに「代書」があります。

「代書屋さん」は、今で言う行政書士、司法書士。舞台となる時代は演者によって若干アレンジされていますが、大正から昭和初期がこの落語の背景です。まさに、この連載の石井十次の大阪事業、クボタ創業者、久保田権四郎の徳風小学校のころです。

当時は、社会情勢や家庭の事情で学校に行けない子ども、長じて、文字の読み書きができない大人がたくさんいました。

このような文字の読み書きができない人に代わって、読み書きをする職業が「代書屋さん」です。

この落語を作ったのは、「人間国宝」桂米朝さんの師匠、四代目桂米團治さん(今、米朝さんの息子さんが、この名跡を継いで五代目米團治となっています)。

四代目米團治さんは、本名・中濱賢三。実際に「中濱代書事務所」を経営していました。場所は、今の東成区役所のあたりです。2009年、その場所に「四代目桂米團治顕彰碑」ができています。

「代書」は、この実体験がもとになった落語で、四代目米團治さんから、米朝さんに受け継がれ、桂枝雀さんに伝わり、「我が米朝一門の財産」(桂米二『上方落語 十八番でございます』)となり、米朝一門以外にも、三代目桂春團治さんの十八番ともなりました。

文字の読み書きが出来ない人が、次々と訪れてきます。ある意味、苛酷な境遇にいる人たちなんですが、この人たちがとてもバイタリティがある。そのエネルギーに、エリート然、真面目面(まじめづら)をした代書屋さんが翻弄されるという、とても痛快、そしてやさしいまなざしを持った落語です。

最初の人は、この連載ですでに紹介した「長町スラム」の住民です。「生年月日、ゆうて(言って)くれまへんか」と代書屋さんから言われ、大声で「せいねんがっぴ」とおっしゃる人です。

この人の「職歴」は、下駄の裏に付ける減りドメのゴムの露店販売、また「ガタロ(河太郎)」等々。

当時の都市の、象徴的な底辺労働です。件(くだん)の代書屋さん、始めて耳にする職業なので、目を回して、汗をかきながら「履物付属品を販売す」「河川に埋没したる廃品を回収し、生計を立つ」と。「お役人言葉」に直して行きます。

この一人目だけで、4050分となるので、春團治さんにしても、枝雀さんにしても、ここで終わっていますが、実は、まだ何人か来ます。

そのうち一人が、朝鮮半島、より精確には済州(チェジュ)島出身です。

故郷に住む妹さんが、紡績女工として働きに来るので、「渡航証明」に必要な書類を代書して欲しいというのです。その時、少し故郷の言葉が口をついて出てくるのですが、これが済州島方言なんです(杉原達『越境する民』p.1519)。

済州島といえば、日本の植民地時代、東洋一の軍事基地(日本の)があり、多くの日本人が流入し、経済バランスが壊れ、住民が暮らして行けなくなったのです。済州島からは、大阪へ、多くの人たちがやってきました。

四代目米團治さんが住んでいたのは東成区。生野区と並んで、韓・朝鮮半島出身者が多いところです。東成区、生野区の、平野川旧河道右岸一帯は「猪飼野(いかいの)」と呼ばれ、平野川、西ノ川、猫間川に挟まれた低湿地で、家が建ち並ぶ今からは想像できませんが、養鶏場、養豚場、そして牛舎がたくさんありました。住環境として、決してよいとは言えません。したがって家賃も安かった。

多くの朝鮮半島出身者が、ここに住むことを余儀なくされたわけです。米團治さんは、この人たちの面倒をよくみて、表彰されたといいます。なにげないセリフに、済州島方言を入れ込んだところに、米團治さんの、生活を共にしたかかわりがみえて見ます。

故郷を捨てざるを得なかった人々、「在日」を生きてきた人々、また、戦争や病気など、さまざまの理由で学校に行けず、日本語の読み書きができない人たちがいます。大阪に11校ある「夜間中学」は、そのかたがたに、学習の場を提供してきました。

ある夜間中学に見学に行った時、80歳を越えた男性が語ってくれた言葉が、今でも忘れられません。

「文字が読まれへんときは、見るもの全部が冷たい壁やった。一人ぼっちでさみしかった。それが、少しづつ字が読めるようになったら、少しづつ、字があいさつしてくれるようになった。今は、文字が笑うてる」

70代の女性です。

「子どもが学校からもらってくる連絡のプリントが読めなくて、心がちぎれるほどつらかった。子どもが不憫やった。今は、孫のもらってくるプリント、全部読めるねん。うれしいわー」

学校にいけず、文字が読めない、ということは、こういうことが、日常生活のいろんな場面で横たわること。

文字を読むということは、「人としての尊厳を取り戻す」ことなんです。

みなさん、「えんぴつポスター」って、ご存知ですか?

鉛筆の形を模した紙に、夜間中学生さんたちが、短文を書くんです。これ面白いですよ、読んで元気がでます。神奈川の川崎でも、大阪府内のあちこちでも、夜間中学に行ったら、まっさきに、壁などに貼られている「えんぴつポスター」を見ることにしてるんです。

CPAOの近くの、東生野夜間中学校のえんぴつポスターは、神戸学院大学講師の金益見さんによって、まとめられ、文藝春秋社から『やる気とか 元気がでる えんぴつポスター』というタイトルの単行本として発刊されています。

この本が出たとき、東生野夜間中学校は、在籍164人、7クラス。在日コリアンが85%以上。平均年齢67歳。最高齢85歳、(2013410日、初版発刊時)でした。

この本のなかから、いくつかを引用します。それが、1番、雄弁に、「夜間中学」や「夜間中学生」のことを語ってくれると思いますから。

言い回しや、句読点など、そのまま引用しています。

「まぶしくて見えなかった字が今 体の中で光っている」

「また ひとつ 字が書けて こころがうれしい」

「わかいときべんきょうできなかった

いま

夜間中学で

べんきょうして

ちょっとずつよめてきた

うれしいなあ うれしいなあ」

「人間としてこのよに生まれ、できないものはないとおもい84さいで入学しました。

 うれしです。」

「病院で自分の名前が書けて

ほんとうにうれしい」

「学校で勉強すると嬉しいことは、自分で履歴書を書いて、面接を受けてお仕事ができたことです。」

「何度も 何度も 文字に助けられ 私は生きています」

「学校にきて学ぶのは字だけでなく 人になれることもわかりました

百才まで学びたいと思うようになりました」

「娘の小学校の卒業文集を

読むことができて

空を飛ぶような気持ちで

最高に嬉しかった。学校は

宝がたくさんつまっています。」

今まで生きてきた証し、今生きている証しが、「えんぴつポスター」の短文には満ちあふれています。

このように、生き抜いてこられた方々が「尊厳」を取り戻す場として、夜間中学校は寄り添ってきたのです。

全国には「義務教育未修了者」が128000人(2010年度国勢調査)。文科省は、公立夜間中学校を、各都道府県に少なくとも一ヶ所開設を呼びかけていますが、まだまだ、足りません。文科省の調査によると、全国には307カ所の自主夜間中学(201451日現在)が、ボランティアの手によって運営されています。

夜間中学校の希望の灯が、全国に広まって行くことを、心の底から願っています。