第1回 ものの始まり、みな大阪

大阪には、「困ったときはお互いさま」の互助的精神から自発的に生まれ育ってきた仕組み、団体、場所がたくさんあります。
例えばーー。
すでに、明治初年、侠客・小林佐兵衛によって、児童養護施設、老人ホーム、犯罪を犯した子どもたちの自立支援施設などの、多角的な役割を持つ小林授産所が出来ました。
学制が公布され、日本で学校教育が始まったのが、明治5年8月2日(1872年9月4日、暦の制度が変わったので日付が違います)。しかし、その一ヶ月前に、世間からは、差別の目で見られていた’渡辺村”の住民たちが、小学校を自主的に作っています。
 日本で最初に始められた生活困難者のための医療施設(政府が作ったものはあったんですが、十分に機能していなかった)ーー大阪慈恵病院も、ここ大阪に1888年に開設されました。
また、「社会福祉の父」・石井十次の、子どもから高齢者までの包括的な事業も、100年前に、ここ、大阪で始まりました。
今、全国に17万人いる民生委員のルーツは、1918年に大阪で生まれました。
全国で最初の公立児童相談所も1919年に大阪で。全国で最初の公立保育所も大阪です。
今から100年ほど前、日本で最も人口が大きく、急成長を遂げていた大阪。それだけに、さまざまな課題が山積していたのですが、それだけに、さまざまな努力と工夫が、ここで生まれ蓄積して行ったのでしょう。
たしかに、行政もがんばりました。しかし、「民間」がまずがんばった。そして、「民間同士」が、つながりました。例えば、石井十次とつながったクボタ鉄工の久保田権四郎初代社長は日本で最初の夜間学校を作り、サントリーの鳥井信治郎初代社長は、釜ヶ崎に無料診察所を開く等、石井十次の大阪事業を支えました。
行政の先駆的試みも、これら民間の社会事業の前進に刺激をうけ、また協力を余儀なくされてのものであったと言えるでしょう。
大阪府の堺市は、中世自治都市として「ものの始まりみな堺」と、自分たちの町を呼んでいます。
その例にならって、人を支えることに関して、「ものの始まりみな大阪」と、言えるかもしれません。
ここから、私たちが学ぶものはたくさんあります。
「まず自分がやろう」と思った先輩たちのことを知り、忘れないこと。
「大阪はえげつない、がめついというステレオタイプが広まっている。いつのまにか、私もそう思ってたけど、そやけど、大阪は社会性に富む先進地だったんや」
「この仕組みは、『昔の大阪だから出来た』のではなく、今の私たちの町でも、参考になるぞ」
「まず『私』がやろう。かつての大阪のように、自治体や国はそれについてくる」
「かつての石井十次さんと鳥井さん、久保田さんのように、人と人とがつながることは、ほんとに大切なんやな。まず、身近な人と手をつないで行こう」
ーーそう思える先例が、大阪にはたくさんあります。そんな先例と今をつなぐこと。そして、それを一つの先例として、人と人とがつながること。そんな参考になる具体的実例を、ご紹介していきたいと思います。