第2回 どんな人にも医療を届けたい 大阪慈恵病院

今、CPAOの拠点、「たつみファクトリー」は巽というところ、大阪市生野区の「真ん中」あたりにあります。「ロウ付け精密溶接」「ヘップサンダル」など、周囲には町工場(ファクトリー)がたくさんあります。とても、大阪らしい場所です。
ここに来る前は、生野区の南の端にありました。環状線の寺田町から、そこに行く途中に、大阪市立生野工業高等学校があります。そして、その玄関横に「石碑」が立っています。
「大阪慈恵病院跡」と刻まれています。

大阪慈恵病院は、貧しさのゆえに医療を受けることが出来ない人々のために作られた病院です。1888年。日本における「救貧医療の先駆け」と言われています。「救貧」ということばには、少し、「上から救ってやる」みたいな雰囲気が、今となっては感じます。しかし、困っている人を支えることなど、まったく顧みられない時代でした。
大阪には大阪府病院という、当時としては最高峰・最先端の病院がありました。この病院で貧困で苦しむ人たちのための医療をという強い要望が何度もでていましたが、府知事は「大阪府病院は医学教育のためのもの」と、その要望を無視しました。
そこで、緒方惟準(おがた・これよし)と高橋正純らの医師が、民間の寄付を募り、そして作ったのが大阪慈恵病院です。
惟準は有名な緒方洪庵の次男で、陸軍の中枢にいましたが、87年、職を辞し大阪へ。高橋正純も、政府の要職を辞し、困窮者のための病院づくりに奔走しました。また、正純の弟の高橋正直は洪庵の門下生です。緒方惟準と正純らと同じく国家の要職を辞し、慈恵病院が出来たとき、副院長となっております。
そういえば、緒方洪庵自身が、有名な適塾の開設とともに、古手町(今の道修町五丁目)に「除痘館」という施設を作り、生活困窮者に無料で種痘を施しています。その精神が息子や高橋正純にうけつがれたのかもしれません。
ちなみに、惟準は、日本最初の公認洋学医であり、明治維新直後の明治2年に、官立の浪華仮病院の院長となっていますが、この時も、行き倒れの病人を救護することに尽力しています。
慈恵病院は、最初、東区唐物町(現在の中央区南船場)につくられ、生野工業高校の場所に移転し、大正年間には、大阪市との半官半民の「大阪市弘済会」に引き継がれ、そして、第二次大戦中に大阪市直営事業としての「弘済院」となりました。
高齢者や幼児の施設も運営する包括的な施設となりましたが、ある意味、創立の理念が継承されて行ったかといえば、少し、残念なところもあります。
大阪市弘済会に引き継がれたあと、ほどなく施設を訪れた淑徳大学の創立者であり、セツルメント活動でも知られた社会事業家長谷川良信は、事務的に案内する施設の管理者たちの姿に触れて「各主任に就き聴取するになんら定見の存する無く、殆ど慈善の心底を欠く、(中略)凡(およ)そ、官公設の聖業を俗了し、汚涜すること比々此の類なり」(長谷川良信『社会事業とはなにか』)と述べています。辞令で異動を繰り返す官僚が、長い人と人との付き合いが必要な対人支援の現場のリーダーとなることには、そのような弊害もあるのです(もちろん、それを経験し、見識を持った人が、また官僚組織の中に戻って行くことのメリットもあります。要は、やはり「人」ですね)
さて、緒方惟準と高橋正純が、「貧しさの故に、医療が受けれない人たちがあっていいのか」と訴え、募金を募ったとき、短期間に、今の貨幣価値で数千万のお金が集まり、また運営費の月ごとの寄付も盤石なものになったことに、「大阪の本質」をみることができるのではないでしょうか?