第9回 視覚障がい者支援から始まった

――ロート製薬のDNA

 

みなさん「みちのく未来基金」ってご存知でしょうか?

2011年3月11日の東日本大震災は、多くの死者・行方不明者をだしました。父母のどちらかが亡くなった遺児、両親ともなくなった孤児も多く残されました(厚労省調べ。1778人 )。

 

この子どもたちに、ロート製薬株式会社、カゴメ株式会社、カルビー株式会社の三者(のちにエバラ食品工業株式会社も参加)が、高校卒業後に進学するとき(大学、短大、専門学校)、返済不要の奨学金を支援しているんです。

しかも、一律で全員10万円とかいうのは、時々聴くのですが、みちのく未来基金の給付額は、その子が必要な学費全額です。一応、300万円までという上限はありますが、まあ、実際の学費を考えたとき、事実上、「なし」ですね。

しかも、震災関連死も含めますので、子どもたちのなかには、震災以降に生まれた人もいます。その最後の一人が、最長大学院を出るまで。つまり、およそ2011年から25年間続けます。

成績とか関係ありません。健康診断書とかもいりません。よく考えたら、健康か病気かで、給付するかしないかが決定されるって変な話ですよね。病気だったら、よりお金が必要なわけでしょう。みちのく未来基金の給付基準は、とてもシンプルです。遺児・孤児であること。それだけです。

家族を失い、家を失い、生まれ故郷から離れて、親戚の家で暮らしている子もいるかもしれない。基金は、仙台に事務所を設け、それぞれの会社から長期出向の形で、スタッフが常駐し、被災地300校の高校と連携をとり、全国どこでも、家庭訪問をします。第一期は、96人、第二期は122人、第三期が105人……。今、第6期まで来ました。

基金のスタートの話をしましょう。

震災の年の4月20日、たまたま、個人として古くからのつきあいのある企業家仲間が集まりました。そこで、参加していたロート製薬の山田邦雄会長が「『阪神』でやり残したことがある」とつぶやいたのです。ロートは、阪神淡路大震災の時、地元企業として、支援活動をがんばりました。しかし、残念なことに「やり残したこと」があったというのです。

「子どもたちの支援にあまり重点を置いてなかった。だから、10数年経って、どんどん若者が流出していってる」と言うのです。

ならば、と参加していたカゴメの石榑康利執行役員、カルビーの長沼孝義副社長などの仲間と、何が必要とされているかを確かめるために、まずは現地に行ったのです。そこで感じたのは”18歳の壁”でした。それまでは、不十分かもしれないが、なんらかの支援がある、しかし、18歳を越えると、自立を強いられる。

津波で亡くなった母親の代わりに、家事をする女の子。テレビなどでは、立派、健気と報じられています。しかし、じっくり話を聴くと「進学したかったけど、諦めた」というのです。多くの子どもたちがそうでした。例えば、漁師が好きで、進学をしないのならばいいでしょう。しかし、「進学したいのにできない」ことは、何とかしなければ――これがみちのく未来基金のスタートです。

6年経って、進学した子どもたちが、就職する年齢となりました。進路に特徴があります。法律家、看護師、薬剤師、介護福祉士、消防士、福祉関係、保育士、建築関係などが、目立って多いのです。社会のために、故郷のために、という意志が、はっきり見て取れます。

さて

ロート製薬の本社 は、CPAOの拠点、大阪生野区の「たつみファクトリー」のすぐ近くにあるんです。発展途上国の、その地域地域に合った支援、視覚障がい者スポーツの支援、盲導犬育成など、「みちのく未来基金」以外にも豊かな社会活動をしておますが、歴史をひも解いたとき、そんなロートのDNAをみることができるような気がします。

時計を半世紀もどしましょう。

ロート製薬が、今の場所・生野に来たのは、二代目社長、山田輝郎(きろう)の時、1959年(昭和34年)。主力商品の目薬(ロート目薬)の名前から、社名もロート製薬株式会社にします。ちなみに、ロートの目薬は、今、アイケア市販薬としては、世界で最も売れているとギネスブックにも登録されているんですよ。

皆さんの中には、池まである大きなグラウンドを飛ぶハトの群れのCMを覚えていらっしゃる方も多いと思います。あれがロート製薬本社です。

山田輝郎は、社員がいきいきと働ける環境(昼休みには、敷地内の池で、ボートを漕ぐ社員さんもたくさんいた)、また地域住民と交流できる環境を備えた会社を、生野に作ろうとしました。「ロートユートピア」を作ろう、というのが、二代目社長の理念でした。

広いグラウンド、そしてプール、1000人収容のホールまであります。時代の先を行く理念を実現した会社は、大阪の観光コースにも入り、連日多くの人々が訪れたほどです。

さて、「山田」の名前と「プール」――何か連想されませんか?

「山田スイミングクラブ」です。山田社長が私財を投じ、1965年(昭和40年)にロート製薬の敷地内に開設。オリンピック金メダリストをふくむ名選手を輩出した名門、スイミングクラブです。

さらに、時計の針を、さらに過去に戻しましょう。

近鉄奈良駅の近くの親愛幼稚園・日本聖公会奈良基督教会。この入り口のプレートに、こうあります。

「奈良県における障害者教育発祥の地」

このプレートが、ロート製薬のルーツを探る手がかりなのです。

ロートの創業者、山田 安民(やまだ やすたみ)は、江戸時代末、慶応4年(1868年、この年に「明治」が始まります)、奈良の生まれです。

薬剤師となり、1899年(明治32年)に「信天堂山田安民薬房」を開店します。胃腸薬などを販売していましたが、当時、トラホーム(トラコーマ)が大流行し、視力を失う人たちが多かったのをみて、目薬の開発を決意します。

試行錯誤の結果、1909年、開発に成功。その処方を教えた井上豊太郎博士の、ドイツ留学時の恩師ロートムンド博士の名を冠して、「ロート目薬」と名づけます。

それだけではなく、視力を失った子どもたちの将来のことを考えた山田は、1920年(大正9)年、日本聖公会奈良基督教会の一室に「私立奈良盲唖院」を作ることになります。目の不自由な子どもたちが、ここで学びました。

山田安民の家は若草山の近くにあり、今は、ロート製薬の社員のための厚生・研修施設「棲霞園(せいかえん)」となっていますが、ここにはヘレン・ケラーも訪れています。

「会社は公器である」——つまり企業は社会に貢献する存在であるというのが、山田のモットー。それがロート製薬のDNAと言えるでしょう。