10回 石井十次の大阪事業(上)

人は なさけの したにすむ

 ——「児童福祉の父」石井十次の大阪事業(上)

今年の322日、大阪市立日東小学校(浪速区)敷地内で、ある「碑」の除幕式が行われました。

「石井記念愛染園発祥の地 」の記念碑です。

碑文には、こうあります。長くなりますが、引用します。

碑文

1887(明治二十)年、全国に先駆けて、岡山に孤児院を設立した石井十次は、児童福祉事業に一身を捧げ、「児童福祉の父」と呼ばれている。岡山や宮崎での孤児院経営の傍ら1909(明治四十二)年、大阪市南区(現・浪速区)の高津入堀川に架かる愛染橋のたもとに、愛染橋保育園と夜学校を開設した。

1917(大正六)年3月、石井十次のよき理解者であった大原孫三郎「倉敷紡績社長・倉敷絹織(現クラレ)創業者」は、岡山孤児院創立三十周年、石井十次永眠満三年を記念して、石井十次の遺志を継ぎ、「清貧の事業」を行うことを目的として、「財団法人石井記念愛染園」を設立した。

大阪市浪速区役所は、社会福祉法人石井記念愛染園が、法人創立百周年を迎えるにあたり、その業績を後世に伝えるために顕彰碑を建立する。

2017(平成二十九)年322

石井十次は、日本における「児童福祉の父」、また「民間福祉事業の創始者」と呼ばれています。100年後の今も続く、「人を支える仕組み」と「人を支える人のつらなり」を生みだしました。

十次は、1865年(慶応元年)宮崎で生まれました。医師を志ざし、1887年(明治20年)、岡山県邑久の診療所で実習生をしていた時、貧しいお遍路さん姿の母子に出会います。

母子は、昼間は物乞い、夜はお寺やお堂の軒下で雨露をしのいでいるのです。見かねた十次は、せめて子どもだけでも、と、その子を預かります。

彼の人生を大きく変えた運命の出会いでした。

彼は、そのような子どもを次々と預かり、面倒をみることになります。

――医師となることも大事かもしれないが、医者はすでにたくさんいる。私がなすべきことは、目の前の人をまず救うこと。私はそれに人生をかけよう。

十次は、持っていた医学書をすべて焼き捨てます。

「そこまでせんでも」と思うかも知れませんが、退路を断って、 ここまでする十次だったからこそ、あのような事業が可能だったのです。

1891年(明治24)、日本史上最大の内陸地震が起こります。マグニチュード8.0とされる「濃尾地震」です。前年から日本に住んでいたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、「国家的不幸」(英字新聞”The Kobe Chronicle”)と嘆いた大災害でした。

死者は7000人を越え、全壊家屋は、14万棟。

十次は、いても立ってもおられず、名古屋で救援に当たります。たくさんの孤児が残されました。まず、すでにある岡山の施設で受け入れ、さらに、名古屋に「孤児院」を作ります。

 1902年(明治35年)、05年(明治38年)、冷害が立て続けに東北を襲います。ちなみに、「三大冷害」というのが、この二年と、1913年(大正2年)なので、そのうち二つが間を空けずに東北を襲ったわけです。 十次は、062月に東北三県(福島、宮城、岩手)を回 り、825人の子ども達を救出しています。

岡山孤児院の子どもたちの数は、どんどん増えて、1000人をはるかに超えることになります。

「病、難、苦、死の内にある兄弟姉妹と共に、其の苦しみを共に苦しみ而して其の喜びを喜びとせんと欲せり」

――と、彼は、その心中を日記に綴っています。

石井十次の精神と事業は、今、故郷の宮崎や岡山のほか、大阪の浪速区や西成区で受け継がれています。特に、大阪でのそれは「大阪事業」と名づけられています。

十次が取り組んだ、大阪事業のうち隣保事業と保育事業、さら周産期母子医療をふくむ医療事業を受け継いでいるのが、社会福祉法人・石井記念愛染園です。

愛染園隣保館長・わかくさ保育園園長であった故・小掠昭(おぐら・あきら)さんのこんな言葉があります(小掠さんには、とても、お世話になりました。また、別の回に、そのひととなりや業績について、述べる予定です)

「今から100年前、石井十次が孤児救済から孤児そのものを出さない社会をつくろうと大阪の地で隣保事業を始めました」(『石井十次の残したもの 愛染園セツルメントの100年』)

十次は、大阪で新たな一歩を踏み出したのです。新しい方向性を試みたのです。

つまり、それは

――「孤児を生み出さない社会を作ること」です。

これが十次の大阪事業の目指したものでした。

(続く)