第14回 要対協のルーツ 釜ヶ崎のわかくさ保育園 ——「子どもの権利条約」実現めざして
「要対協」ってご存知でしょうか?
「要保護児童対策地域協議会」の略で、2004年(平成16年)、児童福祉法の改正にともない、全国の地方自治体に、設置が認められた(「義務づけられた」ではない。残念!)ものです。
地域のいろんな施設や団体が集まって、子どもたちを支援しようという「仕組み」で、「虐待対策の切り札」とも言われています。
この仕組みを、自分たちで生み出したのが「釜ヶ崎」なのです。
しかも、「要対協」をつくったものの、十分に機能しているとはいえない地域も多いなかで、釜ヶ崎では今でも、有効に機能しつづけています。
釜ヶ崎(行政は「あいりん地区」と言ってます)は、大阪市西成区の北端にあります。面積は0.62平方km。
「日本最大の日雇い労働者の町」「日本最大のドヤ街」として知られていますが、この20年ほどの経済構造の変化の影響をまともに受け、建設や港湾などの「日雇い労働」の雇用自体が縮小、働きたくても、仕事がなく、暮らしをたてて行くことが難しくなりました。
しかし、長く「日雇い労働者の町」として続いてきた釜ヶ崎には、半世紀以上の歴史を持つ「支援の仕組み」がたくさんあます。ある意味、さまざまな困難を抱える人たちの「最後のセーフティネット」の町でもあるのです。
日本だけではなく、世界各地を見ても、「困難を抱える地域(チャレンジド・エリア)」は、「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」の蓄積があるエリアなのです。
問題は、「ソーシャル・キャピタル」は、ビルや道路と違い、「人間関係の仕組み」とか「コミュニティを生み出す仕組み」とかなので、具体的に地域づくりに関わったりした経験があまりなければ、イメージしにくい、「見えない」のです。
だから、今の大阪がまさにそうですが、そこが切り捨てられても、世論の反応が薄い。
ある意味、この連載は、大阪が先進的に生み出し、何十年もかけて蓄積してきた「ソーシャル・キャピタル」を、みなさんに知っていただきたいという思いから書き始めました。
今回は、釜ヶ崎にたくさんある「ソーシャル・キャピタル」の一つ、しかも、その代表的なものについて、紹介したいと思います。
釜ヶ崎の真ん中に、保育園があります。
「わかくさ保育園」です。
以前この連載で紹介した「児童福祉の父」石井十次の精神を受け継ぐ、社会福祉法人石井記念愛染園が運営する施設の一つです。
建っている場所は、これも連載で紹介したクボタの創業者、久保田権四郎の「徳風小学校」があったところ。
1955年(昭和30年)徳風小学校の建物を改築し、石井記念愛染園の隣保事業を行う西成市民館が開館。その一画でわかくさ保育園が開園したのが1970年です。
そのころ、釜ヶ崎は日本最大の、巨大な「日雇い労働者の町」でした。そして、それはある意味「国策」として作られたのです。
つまり、1970年、大阪万国博覧会の開幕を目標として、大阪全体のインフラ整備を行おうという国や、大阪府の思惑があったのです。ちょうど、1964年の東京オリンピックが、東京の戦後復興の目標となったように。
全国から数万人の若い労働者が「日雇い労務者」として、大阪に呼び寄せられました。そして、その(万博までの)宿泊場所として、釜ヶ崎のドヤが”選ばれ・使われた”のです。それまでは、老若男女がドヤの住人でした。その人たちが追い出され、「日雇い労働者の町」が形成されたのです。
釜ヶ崎には、JR環状線、南海本線、南海高野線、地下鉄堺筋線、地下鉄御堂筋線、地下鉄四つ橋線、そして阪堺電気鉄道の駅が、合計10駅もあります。
特に、御堂筋線と堺筋線は、直通で建設中の万博会場、千里ニュータウンに行けます。堺筋線は、釜ヶ崎を始発(駅名は動物園前)とする鉄道です。いかに、各工事現場へのアクセスが考慮されていたかが、よく分かります。
集められた日雇い労働者は、万博が終わると仕事が無くなり、苛酷な運命の下に置かれました。景気の動向に左右される日雇い労働。今までみたいに、電車一本で行けるところに、毎日仕事があるのではありません。仕事があれば、日本中どこにでも行かねばなりません。不安定な雇用は、不安定な生活、不安定な家族を生みました。
家族、子どもをおいて、何ヶ月も遠隔地の仕事に行かねばならない数多くの男性。不安定な結婚生活、過酷な境遇で、シングルマザーとなり、さらにうつになり、ドヤの部屋で子どもとずっといるという女性も珍しくない。子どもの世話も十分にはできない。
ある意味、それらは「ネグレクト」と見なされるかもしれません。しかし、それを余儀なくしている社会的背景があるのです。
「ネグレクト」と”名づけ”をするだけで、放っておいていいはずはありません。社会的背景ごと、その家族、そして子どもを支えねばならない、と考えた人たちがいました。
万博の翌年、1971年わかくさ保育園は「あおぞら保育」という画期的な事業を始めます。
父が日雇いで遠いところに行っている。家計を支えるために母が働いている。働きすぎて、心身が不調になった。そのような家庭の子どもたちこそ、最も支えが必要です。しかし、そのような家族は、近所付き合いが少なく、地域で孤立しがちで、なかなか「見えにくい」。「保育」が最も届かない。
そこで、わかくさ保育園は「保育園に来る」代わりに、「保育を届ける」仕組みを考えました。それが「あおぞら保育」です。
今でも、毎日、毎日、わかくさ保育園の保育士さんが、地域内をぐるぐる回っています。
公園で一人遊んでいる子どもを見つけることもあります。
ドヤの経営者、大家さんとは、長年の顔見知りです。「最近やってきた二階にいる母子だけど、ちょっと心配やねん。DVみたいなのから、逃げてきてるのとちゃうかなぁ」
——信頼関係のなかから、そういう情報も寄せられます。
はやく「保育」につなげたい。でも、ドヤで息をひそめて暮らしているご家族には、なんらかの理由・背景があるはずです。ずけずけと「保育所来ませんかー」とドアを開けて入ることは避けないとといけない。
大家さん、管理人さん、隣の部屋の人など、いろんな人間関係をたぐり寄せながら、少しづつ少しづつ関係を作ります。
やっと、部屋のドアを開けてもらえるところまできました。
でも、まだ、わかくさ保育園に来る必要はありません。近所の公園で、ドヤの前の道端でともに遊ぶ。だから「あおぞら保育」なんです。
わかくさ保育園は、いろんなステップに時間をかけます。そういうことが「子どもの権利を守る」「育ちを支える」ということなんでしょうね。
さて、いろんな過程を経て、お子さんが初めて保育園へ来ることになりました。
正規の手続きはいりません。必要とするときに、すぐに保育が提供されるのです。必要なのは「まずは具体的支え」であって、「まず書類」「まず手続き」ではないのです。
前の園長だった故・小掠昭(おぐら・あきら)さんは言っていました。
「わかくさに『また、明日』の言葉はない」と。
つまり、困っている人をみて「また、明日ね。その時に書類を持ってきますから」——はない。
手続きは後回しでもいい。まず、何とかする―—それがわかくさ保育園のモットーです。
家賃が払えず、ドヤから着の身着のまま放りだされた5人家族がいました。その姿を見たわかくさ保育園の一人の保育士さんが、「とりあえず、園で泊まってもらいましょう」
それは小掠さんの切望でもありました。でも、園長の「鶴の一声」でやることは、園の精神ではありません。小掠さんは、「みんなの気持ちが嬉しかった」と語っていました。
3月で、卒園式が間近に迫っていました。その5人の家族のなかに年長組さんがいたのです。
「せっかく皆でつくってきた『ばらぐみさん(年長クラス)』が、1人欠けたままで卒園式を迎えるなんてことは考えられない」と職員さんたちは言いました。
しばらく、園長室で泊まり、やがて生活を建て直して、無事、みんなと一緒に卒園できたのです。
この「生活の建て直し」を支えたのが、わかくさ保育園のもう一つの独自の取り組みです。そして、それが全国に広がり、「要対協」となったのです。
1994年(平成6年)、日本は国連子どもの権利条約を批准しました(世界で158 番目!)。しかし、その精神を行かした取り組みは、今でも、なかなか進んでいないのが実状です。
しかし、わかくさ保育園の小掠園長は、批准翌年に心ある仲間たちに呼びかけ、子どもたちを支えるネットワーク(あいりん子ども連絡会)をスタートさせました。子どもは守られる存在であると同時に「権利を享受して行使する主体」であるという、「子どもの権利条約」の精神を、釜ヶ崎で具体化しようとしたのです。
子どもの問題を、家庭、地域の問題ととらえ、保育園・幼稚園や小中学校の教員、区役所の担当者、保護司さん、地域の民生委員、ケースワーカーさん、小児科の医師、地域のさまざまな「志」ある人たちに声をかけ、ネットワークを作ったのです。
これで、医療や福祉など様々な支援につながることができます。先の5人家族は、まさに、このネットワークで、様々な支援につながりました。
今でも40団体が、毎月第4木曜日に、保育園のある西成市民館の二階に集まり、ケース会議をします。一人一人が、子どもや家族のことを熟知しています。中学校校区ほどの大きさですので、わかるのです。
また、子育て中の親や子どもを中心とした「わが町にしなり子育てネット」(2004年5月24日)も設立され、この両者が車の両輪となって、子どもの権利を守る取り組みが広がりました。
その結果、ネグレクトが激減。
この仕組みが、全国でも先進的な仕組みとして、朝日新聞から「朝日のびのび教育賞」を授賞することになります。そして全国に広がり「要対協」のルーツとなるのです。
小掠園長は、2011年4月にご病気で亡くなりました。亡くなる直前まで、いつも笑みを浮かべながら、自転車で地域をぐるぐる回っていた姿は、今も、目に焼き付いています。
そう言えば、先日、「夜間中学の闘士」髙野雅夫と会いましたが、髙野さんも、小掠園長と旧知の間柄で、ともに闘った仲間のことを、とても懐かしがっていました。