第15回 日本初の公立児童相談所を作った三田谷啓(さんだや・ひらく)

起(た)とう、子どもたちの喜びのために

大正時代末、大阪市は東京市(当時)を抜いて、人口日本一、世界でも6番目の大都市となりました。「大大阪(だいおおさか)」と言われた時代です。

すでに、それ以前、1883年(明治16年)には大阪紡績会社(今の東洋紡績)が開業。蒸気を動力源とした、日本初の巨大紡績工場でした。日立造船(当初は、大阪鐵工所)を始めとする造船、鉄鋼、セメント、そして、なんとアメリカのゼネラル・モーターズの工場も大阪にあったんです。むろん、商業は江戸時代以来の得意分野、泉屋(住友)、九十九商会(三菱)、そして鴻池・・・。

大阪は、人口だけでなく、産業の面でも「大大阪」でした。

発展する「大大阪」、明治時代の末ごろには、大阪市周辺の農地は、わずか4年から5年で半減するぐらいのスピードで宅地や工場に変わっていきました。

が、急激な変化は、社会の矛盾を生みます。

土地を追われた農民、地域格差のため、地方から大阪に流入してきた細民など、困難を抱えた人々が急激に増加してきます。浪速区の長町や、福島区の羅漢前など、「都市スラム」が形成されてきました。

前にも少し述べましたが、社会の片隅に生きる庶民の生活を描写した上方落語のいくつかには、そこが舞台のところがあります。貧困、不安定就労、劣悪な住環境、衛生問題などの問題が噴出してきました。

これに対して、大阪市は、公設市場、託児所、職業紹介所、共同宿泊所などの公共施設を作って行きます。

そのなかで、今回は「児童相談所」について述べたいと思います。

1919年(大正8年)に設立された、日本で最初の公立児童相談所です。

(1925年)大正14年、大阪市の乳幼児死亡率は、1000人に対して、186(東京123)。6人に一人の赤ちゃんが亡くなったのです。ニューヨークは6.5、ベルリンに至っては「1」です。

乳幼児期の保健衛生環境が、それほど過酷ならば、それ以降の年齢も同じ過酷な環境に置かれるのは、自明でしょう。また、家族もそうであるのも自明です。

周産期も含めた母子医療、保健の必要性が喫緊の課題となっていました。(その課題には、以前の連載でも紹介したクボタの創始者、久保田権四郎や、児童福祉の父、石井十次も、同じころ必死に取り組んでいました)

この時、骨身を惜しまず、困難な環境にある人々、特に、母子に医療・教育・保健を提供しようと尽力したのが、三田谷啓(さんだや・ひらく)でした。

三田谷啓は、1881年(明治14年)兵庫県有馬郡名塩(現、西宮市名塩)に生まれ、大阪府立高等医学校(現、大阪大学医学部)を卒業後上京。

そして、この時、二人の「偉大な先達」に出会ったことが、彼の人生を変えます。

一人は、呉秀三(くれ・しゅうぞう)。もう一人は富士川游(ふじかわ・ゆう)です。

「日本の精神医学の草分け」と言われる呉。

「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」

——彼のこの言葉は、日本における精神障がい者の置かれた状況を、的確に表したものとされます。残念ながら、今日にいたっても。

当時、精神障がい(時に、知的障がいも)の人々は、「自宅」に監禁(監置)されました。呉は詳細な調査を行い、『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』(1918年)を発表。そのなかで前述の言葉を記しています。

東京府巣鴨病院(現・東京都立松沢病院)の院長となった呉は、大胆な改革を行います。

拘束具使用禁止。しかも、今まで使われていた拘束具をすべて焼却処分!

患者は、建物を自由にでて外の空気を吸えるようになりました。当時珍しかった「作業療法」も積極的に導入しました。

富士川は、当時の日本では「血筋」「家系」などと、偏見の目で見られてきた「知的障がい」に対して、医学的判断をした草分けでした。もちろん、単に医学的対象として診ただけではなく、民間の児童相談所の第一号、日本児童学会附属児童相談所の創設にも加わった人物です。温かい心も兼ね備えた人物だったのでしょう。

三田谷啓は、この二人から大きな影響を受けます。また、ドイツに留学し、ゲッチンゲン大学で、学位(治療教育学、心理学)を受け、あの「クレペリン検査」で有名な、ミュンヘン大学のエミール・クレペリン教授の薫陶も受けています。

彼の理念は「医学と教育の握手」、今の概念でいうと、「療育」ということでしょう。障がいのある子どもたちを治療の対象」として見るだけでなく、その可能性を伸ばし、より社会的制約の少ない生活ができるようにすることです。

1918(大正7年)、大阪市は児童課を設置し、三田谷は、その課長に就任することになります。行政が設けた日本初の児童課、三田谷は日本初の児童福祉専門職(課長)となったわけです。このとき、大阪市は、同時に産院、乳児院、少年職業相談所を設けています。包括的で、当時としては先進的な挑戦だったことが分かります。

三田谷が作った「児童相談所に関する報告要領」を見ると、日本の、また特に大阪の、乳児死亡率が高いこと、その背景には母となる、また母となった女性が相談する場所が決定的に不足していること。その相談に応えるためには、教育・衛生・保健、医療を包括する事業が必要であることが、強く説かれています。

知的障がいを持つ子どもは、単に「治療の必要な患者」ではありません。人間としての尊厳を持ち、人間としての可能性を持つ。それが、当時としては画期的な三田谷の考えでした。だから、社会が「保健・衛生」で日常生活を送れるよう支え、「教育」を提供すべきなのです。

三田谷の情熱によって、日本初の公立児童相談所である大阪市立児童相談所が、南区宮津町(現・浪速区)にできました。相談は無料。健康相談部と教育相談部、そして研究部に分かれていました。

三田谷の先見性を示す好例が、児童相談所内に「母の会」をつくったこと。まさに、現在、その重要性が認識されている、当事者同士によるピア・カウンセリングです。また、家庭訪問を積極的に推進したことでしょう。これも、現在でいう、アウトリーチの重要性を、すでにこの時代に、三田谷は認識していたということ。いや、やっと、私たちが三田谷の背中が見えているということなのかもしれません。

家庭訪問の柱となった人が二人います。何と、「日本の児童福祉の父」石井十次の妻、石井たつ子、そしてその妹、小野田たる子のお二人です。特に、小野田たる子さんは、着任のその日から毎日、60軒以上のアウトリーチ活動をして、「そうだんじょのおばさん」と、今の釜ヶ崎や浪速区の子どもたちから、親しまれていたのです。

このような、実践と、地道な研究調査活動は、その後の、大阪の指導相談、知的障がいを持った子どもたちの教育に携わる人材の分厚い層を生み出しました。

最後に、三田谷啓の考え方をよく示す、彼の文章があるので、引用したいと思います。

「我国に何故治療教育事業興らざるか」三田谷 啓

精神神経学雑誌第四十一巻第八号別刷

(昭和12年8月28日発行)

治療教育に関する一般の認識の不足する事は次の点である。即ち治療教育を施せば障害児でも普通の程度になるか、もしそれが不可能ならば教育する価値はないと考えることである。

これは根本的な誤りであることをまず理解させなければならない。

(中略)

教育者よ起(た)て、起って可燐な児童を闇より光に変換させよ。

医学者よ起(た)て、起って彼等の障害を支援し、補強し、生存権の拡大を喜ばせよ。

つまり、障がい児が「普通児」になることが、障がい児教育(療育)の目的ではなく、その当事者が、自分が生きていることの権利を享受すること、そして、それを当事者が喜ぶことが、障がい児教育の目的だというのです。

このことは、障がい児教育だけでなく、人を支え、社会を支えるときに、心しなければならない、一つの指針だと思います。