第4回 生野よいとこ 田島のめがね

——眼鏡レンズ産業発祥の地 生野区田島

 

大阪市生野区田島。ちょうど、以前CPAOがあったところと、今の場所の中間です。

生野は庶民の町。まだ銭湯があちこちに残っています。前のCPAOの拠点の近くには、源ヶ橋温泉という、国の「登録有形文化財」に、銭湯として初めて登録された「名所」があります。

さて、田島4丁目に「めがね温泉」という銭湯があります。ちょっと変わった名前ですね。何に由来するのでしょうか?

明治・大正期には、「生野よいとこ 田島のめがね」とまで謳われ、「田島のめがね」は全国的に有名だったんです。今は、眼鏡というと、ファッションの観点から、フレームに関心が集まりますが、眼鏡本来の目的からいえば、「まずはレンズ」ということでしょう。

 

昔、ここ田島は、眼鏡レンズの製造工場が200軒も集積する、日本一のレンズの町でした。「めがね温泉」の名はそれに由来するのです。今でも、往時には及びませんが、周辺には、レンズメーカー、ルーペ、拡大鏡のメーカーが散見されます。

『生野郷土史』などによると、「田島のレンズ」は1857年(安政4年)に創業されたと記述があります。1831年(天保2年)に、田島村に生まれた石田太次郎が創業とされます。太次郎は、農家の生まれでしたが、幼いころ足が不自由(『大阪人物辞典』によると小児マヒ)となり、かなりの労働を伴う家業の農業ができなくなりました。

 

彼は、知人からレンズづくりが盛んだと聴いた丹波の国で眼鏡製造の技術を学びました。そして、田島に帰ってきた彼は、その技術を独り占めにせず、村の人たちに広く伝えたのです。彼のように、農作業が出来ない人たちの生業として、また農業だけではなかなか食べて行くことが困難な人たちの副業として、「眼鏡づくり」を、田島村の産業としようという志が彼には、あったのでしょう。

 

自分自身が感じた悔しさやつらさを、「眼鏡づくり」と結晶させ、その果実を他者へと広げた石田太次郎。田島神社境内には彼の業績を偲ぶ「眼鏡レンズ発祥之地」記念碑が建立されています。また、11月3日には、神社境内で感謝祭が催されています。

 

太次郎の功績はいろいろあるでしょうが、「仕事づくり」によって、自分と地域全体の暮らしを立てて行ったことは、私たちが心しなければならない点だと思います。

もちろん、一人残らず刻苦精励して働けという話ではありません。働けないときは、他の支えが必要です。とともに、人を支えることのなかには、「仕事づくり」という重要な要素もあるということは、忘れてはならないことだと、思います。

 

なぜ丹波だったのかは、その詳細は分かりませんが、レンズ研きの技術は、もともとは「鏡研ぎ職人=鏡師」の技術の応用です。丹波には、今でも世界最高品質の「砥石」(もちろん、鏡やレンズには、それを粉体にまで細かくしたものが使われます)が産出します。もともとは、刀研ぎだったのでしょうが、鏡研ぎからレンズ研ぎへと、技術が転用されたのでしょう。ちなみに、現在、丹波などの天然砥石(粉体)が、高精度レンズや電子部品のシリコンウェハなど先端材料の加工に用いられています。人工砥石よりも、より高精度が期待されています。

 

もちろん、石田太次郎だけが偉かったのではありません。田島の村人もがんばりました。1913年(大正2年)には、眼鏡づくりに電力による機械を導入するなど、日本一の産地になりました。大正年間には、すでに生産高50万ダース。海外にも輸出され、1975年(昭和50年)には、出荷額172億円に達しています。日本の眼鏡レンズの9割が、田島で生産されていたんです。

 

ご多分にもれず、安価海外レンズ、プラスチックレンズの台頭で、今は、往時の繁栄を見ることはできませんが、熟練の職人技の精密加工技術を誇る工場は健在です。

 

日本一の眼鏡レンズの町だったころ、たくさんの眼鏡づくり職人さんが、一日の仕事を終えて、「めがね温泉」に入りに来たのでしょう。

みなさんも、一度、そんなことを想像しながら、「めがね温泉」に入りにきてくださいね。