6回 生野聴覚支援の豊かな歴史 舎利寺伝説に、そのルーツを想う

 大阪生野区のCPAOのある近隣に、舎利寺という名前の地域があります。ここに、こんな伝説があります。

だいたい、今から1400年前のことです。「生野長者」と言われる長者がいました。

 この長者には、子どもがいたのですが、しゃべることができないのです。四天王寺建立のために来ていた厩戸王(聖徳太子)に相談すると、この子ののどに、生まれつき何かが引っかかっている。だからしゃべることができないのだ。それは、仏舎利(お釈迦様=ゴータマ・ブッダの遺骨)である、というのです。ちょっと「伝説」っぽくなりますが。寺とか場所の「縁起」(=由来記)というのは、だいたい、こんな感じです。

 その子どもは、厩戸王の前で、仏舎利を三つ吐き出して普通に話せるようになりました。この三つの仏舎利のうち、一つが天王寺、一つが法隆寺、そしてもう一つが、生野長者の手元に託された。そこで、長者は堂宇を建て、仏舎利を収めた。そのお寺が、今もある舎利寺です。

地名の舎利寺は、その寺に由来します。

 昔、体の不自由さは、しばしば、通常の人々と違う「神聖さ」を示すものと考えられていました。「差別」の対象というより、「畏敬」の対象だったとも言えます。

例えば、「商売繁盛のえべっさん」は、もともとは「商売繁盛」ではなくて、漁業の神。蛭子(えびす、ひるこ)で、身体が不自由です。

上方落語のいくつかの演目で、「えべっさんにお参りするときには、前からお参りしたらあかんで、えべっさんは、耳がとおおて(遠くて)、足が悪い」とかいう下(くだ)りがあります。

「えびす」というのは、当て字で「恵比寿」「恵美須」とか書きますが、本来は、蛭子、夷、狄、胡、戎。すべて、「異者」を示す漢字ですね。それを神として信仰するというところに、昔の人たちが、自分たちと異なる存在に対して、「畏敬の念」で接していたことが、現われているような気がします。

舎利寺の縁起では、「言葉が不自由」な原因が、聖なる仏舎利だったわけです。

 さて、この生野の舎利寺のエピソードで、どうしても想起してしまうことがあります。「偶然の奇跡」なのでしょうか。

生野は、「聴覚障害教育」の豊かな伝統を持つ地域なのです。

生野区には、90年以上のルーツを持つ、府立生野聴覚支援学校があります。JR環状線外回りで、鶴橋から桃谷に行く途中に、左の車窓から校舎が見えます。幼稚部・小学部・中学部があります。かつては、高等部もあったのですが、2006年に府立堺聾学校高等部と統合され、大阪府立だいせん聴覚高等支援学校(堺にあります)となりました。

府立生野聴覚支援学校は、「地域に開かれた学校」が特徴で、地域の企業や住民向けの手話講習会、また0歳児の、不安を抱えたご家族へカウンセリングなど、 先駆的取り組みをしています。

大阪市内には、もう一つ府立の聴覚支援学校、中央聴覚支援学校がありますが、この学校も生野区にとても縁があるのです。

(あと、府立聴覚支援学校は堺市に2校あります。全部で大阪府には4校の聴覚支援学校があるわけですが、うち2つが生野区と関係があるわけです)。

さて、府立中央聴覚支援学校、今は大阪市中央区にあるのですが、前身である大阪市立聾唖学校(当時の名称)の校舎は、 1923年に東成郡生野村(現在の生野区)に設置されています。ここには、ヘレン・ケラーも訪れています。

この学校が日本で先駆的な役割を果たしたのは、手話の推進です。

日本では、聴覚障がい者のために、口話・読話・ 筆談・空書・聴能などさまざまなコミュニケーションの方法がありましたが、1930年代、口話(口の形を読み取る方法)が重んじられ、当時の文部大臣が「口話法推進の訓辞」を行い、多くの学校で手話が禁止されていたのです。

口話法は、口や唇の動きを読みとる方法で、確かに、これが適している子どもたちもいました。しかし、多くの子どもたちにとって、手話は意志疎通がよかったためか、先生に隠れて、手話を教えあったりしていたといいます。

実は、「手話」は、最近、その価値がとても高く評価されています。なぜならば、言ってみれば、口話や筆談は、ろう者ではない人たちが使う言語にろう者が合わせる形です。しかし、手話は「ろう者固有の言語」なのです。だから、口話や筆談と手話が出来るろう者は、バイリンガルなのです!

20061213日に第61回国連総会において採択された「障害者権利条約」(日本国の批准は2014120日付け)の第304項には、はっきり、こう謳われています。

 「障害者は、他の者との平等を基礎として、その独自の文化的及び言語的な同一性(手話及び聾文化を含む)の承認及び支持を受ける権利を有する」(「聾」の漢字は原文のママ)

つまり「手話」は、他の聴覚障害のある人の文化と並んで、おかすことの出来ない、「文化的・言語的なアイデンティティー」なのです。

日本で、聴覚障がい者に対する認識に大きな変化をもたらしたとされる木村晴美・市田泰弘による「ろう文化宣言」(1995年)にも、「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者」とあります。

これら、近年の動きを考えると、「手話」はとても大事な文化的価値、人権的価値を持つと言えます。

さて、話を1930年代の日本に戻します。

そのころ、大阪市立聾唖学校の校長だった高橋潔は、最後まで手話を守り、子どもたちの特性に応じて、口話・手話を使い分けました。

大事なことは、口話が優れているとか、手話が優れているとかではなくて、「子どもたちに応じて適切な方法を考えた」ということです。

前述の、文部大臣訓示の席で、大臣を前に高橋は「手話の必要性」を力説しています。また、自身も手話に熟達し、さらに「日本手話」の改良にも力を入れました。1958年に亡くなりましたが、「日本聴力障害新聞」は、一面で「聾唖者の師父 高橋潔先生 遂に永眠さる」と報じています。

この高橋潔の、子どもたちに応じた手話、口話、指文字などの指導法は、ORAORAは、「大阪市立聾唖学校教育法」の頭文字です)と呼ばれました。

それは、障がい児のみならず、子どもたちの個性を尊重する「本来の教育のありかた」を見据えたものと言えるでしょう。

CPAOのある生野区について、近古の歴史に思いを馳せながら、その豊かな歴史の、ほんの一端を記させていただきました。